牧野2018年度作品の初期衝動について

――壊れたあとも続く生と、その最小単位
牧野楠葉 2025.12.29
誰でも

2018年に書いた二つの短編、『K子』と『あの娘』を、私は長らく「初期衝動で書いたもの」として棚上げしてきた。技術的にも、構成的にも、いまの自分から見れば粗い。だが同時に、この二作には、その後の自分の小説に一貫して流れ続けている“思想の核”が、ほとんど未加工のまま封じ込められている。

今回は、この二作を「出来不出来」や「完成度」ではなく、初期衝動の思想そのものとして分解し、言語化しておきたい。これは過去作の回顧ではなく、現在の自分がどこから来たのかを確認するための作業だ。

1 転落譚を書こうとしていなかった、という事実

『K子』は、外形だけ見れば、よくある転落譚に見える。

借金を抱えた女性が、AVに出演し、無職でだらしない年上の男と関係を持ち、仕事も社会的立場も失っていく。だが、この短編を書いた当時の私は、「転落」や「悲劇」を描こうとしていなかった。

K子は、上昇も回復も望んでいない。 快楽も救済も、そこには存在しない。

彼女が繰り返しているのは、ただ一つ――行為が止まらない、という事実だけだ。

借金は完済できないと分かっている。 仕事が自分を救わないことも分かっている。 男が何も返してくれないことも、最初から理解している。

それでも、彼女は次の仕事を入れ、金を渡し、身体を使い続ける。

このとき私が掴もうとしていたのは、

  人は、絶望の中で「間違った選択」をするのではない。正しい選択肢が消滅したあとも、行為だけは惰性として続く 。

という感覚だった。

これは道徳でも批評でもない。 ただの観測だ。

2 「悪人」を置かない、という選択

『K子』に登場する男は、搾取する側ではある。だが、彼は暴力的でも狡猾でもない。むしろ、すでに壊れきっている。

無職で、養育費も払えず、酒に溺れ、性機能すら失っている。 彼はK子を支配しない。利用はするが、主導権も未来も持っていない。

ここで重要なのは、誰も「悪者」として描かれていないことだ。

世界が壊れているのであって、特定の個人がすべての原因ではない。

この視点は、後年の私の作品――宗教、制度、家族、共同体を扱う際にも、ほぼそのまま引き継がれている。 加害と被害を単純に分離しない。 構造そのものを見ようとする態度は、すでにこの時点で固まっていた。

3 尊厳が縮退していく場所

『K子』でもっとも執拗に反復されるモチーフが、男の「喉仏」だ。

人格でも、言葉でも、未来でもない。 喉仏という、身体の一部。

それを「美しい」と感じ、同時に「掻っ切りたい」とまで思う。

ここで起きているのは性愛ではない。 人間の尊厳が、極限まで削られた末に、最後に残った感覚の一点にすがりついている状態だ。

私は当時、

  人間の尊厳は、物語や関係性が壊れたあと、 たった一つの身体的感覚にまで縮退する  

という直感を、ほとんど無意識に書いていた。

そしてその美しさは、同時に破壊衝動を伴う。 愛と殺意が分離していない地点――そこに、私の初期衝動はあった。

4 『あの娘』における言語の抑圧

二作目の『あの娘』では、思想はさらに露骨になる。

語り手の「あーし」という一人称は、キャラクター付けではない。 これは、暴力によって歪められた言語だ。

彼女の言葉は、常に他者の機嫌を先読みし、怒られないために選ばれている。 自分の欲望や恐怖を、直接的な言葉にできない。

この短編を書いた時点で、私はすでに、

  言語は自由な表現手段ではない。言語そのものが、暴力の痕跡である 。

という認識を持っていたのだと思う。

5 救済は、人生を変えない

『あの娘』に登場する「せんせ」は、救済者の位置にいる。 金を払い、話を聞き、怒らず、甘いもなかを与える。

だが彼は、彼女を連れ出さない。 警察も制度も使わない。 未来を保証しない。

彼が与えるのは、一瞬の安全と甘味だけだ。

ここで描かれている救済は、ドラマ的な解決ではない。

  救済とは、人生を変えることではない。生き延びるための、数分間の猶予でしかない。

6 身体が先に回復する

『あの娘』のクライマックスは、暴力ではない。 もなかを三つ、頬張って泣く場面だ。

理解でも希望でもなく、身体が先に反応する。

このとき私は、

  人は「わかってもらう」ことで回復するのではない。身体が、先に息を取り戻す。

7 逃走は叫びから始まらない

ラストで彼女は「助けてください」と言わない。 言えるのは、「電話を借りてもいいですか?」という事務的な一文だけだ。

逃走は、英雄的な決断ではない。 叫びでもない。

解放は、事務的な行為からしか始まらない。

この感覚もまた、初期衝動として確かに存在している。

終わりに

2018年の私は、人を救おうとしていなかった。 正義も、希望も、語ろうとしていなかった。

ただ、

  壊れたあとも、人は生き続けてしまう。その生を支えるのは、愛でも思想でもなく、たった一つの美しさ、甘味、沈黙、身体の感覚だけだ。

という事実を、冷静に、しかし執拗に書き留めようとしていた。

この二作は、いまの自分のすべての出発点だ。 そして同時に、いまだに完全には手放せていない問いでもある。

『K子』と『あの娘』はWEBで全文読める

ここで取り上げた2作のリンクを貼っておきます。
よかったら読んでみてください。

K子

あの娘

それではまた。明日は、インボゲルグ・バッハマンについての短い論考などを配信したいと思っている。

牧野楠葉

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