私と師匠の対話:ポストモダンを殺した言説

――「深いことを言っている感じ」は、どこで思考を止めたのか
牧野楠葉 2026.01.03
誰でも

私には、文学、哲学、映画を仕込んでくれた師匠がいる。
父にあたる人だ。


その人と、ついこの前まで考えていた、川端康成の欲望論(『伊豆の踊子』)についてやりとりしていたわけだが、それを以下のように定義してしまった。

「その欲望は対象へ向かう運動ではなく、対象から一定の距離を保ち続ける、緊張状態である。」

  一見すると、よく整った哲学的断言に見える。 しかし、この一文を骨組みだけに分解すると、何が残るだろうか。  

師匠はキレた。

  そもそもその欲望は運動と状態という言葉をかなり適当に使っていて、そのせいだと思いますが、まともな論理になっていません。「その欲望ではなくて、状態である。」こんなふうにキミの言葉の骨組みを示してみると、いかによくわからないことを言っているかがわかるでしょう。こういう言説もどきが、ポストモダンを殺したのですよ。
師匠

欲望とは何か。 運動とは何か。 状態とは何か。 なぜそれらは排他的なのか。 それは物語のどの水準の話なのか。

これらが一つも定義されないまま、語の配置だけが「思考」を演出しているとしたら、それはもはや議論ではない。 師匠が言った「こういう言説もどきが、ポストモダンを殺してしまった」という言葉は、まさにこの地点を指している。

ここで言う「ポストモダン」とは、ある思想潮流の名前ではない。 それは思考の態度であり、方法であり、問いの形式だった。私は自戒を込めて、リサーチしたことや言語化したものを、ここに示しておく。

1|ポストモダンは、何を壊し、何を作ろうとしたのか

ポストモダン思想は、「意味」や「主体」や「物語」が、どれほど脆く、条件付きのものかを暴いた。

ジャン=フランソワ・リオタールは、大きな物語(グランド・ナラティヴ)の終焉を語り、 ジャック・デリダは、言語の内部に潜む差延を示し、 ミシェル・フーコーは、知と権力の絡まりを可視化した。

彼らがやったのは、「すべてを相対化すること」ではない。 定義されて当然だと思われていたものが、どのような条件のもとで成立しているのかを、徹底的に問い直すことだった。

つまり、ポストモダンは「曖昧さ」を愛したのではない。 曖昧さが生まれる仕組みを、精密に扱った。

ジャン=フランソワ・リオタール

ジャン=フランソワ・リオタール

ジャック・デリダ

ジャック・デリダ

ミシェル・フーコー

ミシェル・フーコー

2|「殺した」のは誰か――思想ではなく、言説の型

問題は、その後に起きた。

ポストモダンが一般化するにつれ、次のような言説の型が量産されていった。

  • 概念を定義しないまま使う

  • 「Aではない」「Bでもない」と否定だけを重ねる

  • 二項対立を超えると言いながら、新しい位置を示さない

  • テクストや事例に戻ると、何も説明できない

これらは一見、思考的に見える。 だが実際には、語の配置が思考の代わりをしているだけだった。

「運動ではない」「状態である」と言い切る。 しかし、その言い切りがどの水準で、どの条件下で有効なのかは語られない。

結果として、

  何を言っても、反論できない。そして、何も分からない。  

という状態が生まれる。

これが、師匠の言う 「ポストモダンを殺した言説」でなのだと思う。

3|なぜそれは「殺した」と言えるのか

思想は、説明責任を失った瞬間に死ぬ。

ポストモダンは本来、

  • 概念を疑う

  • だが、疑うためにこそ概念を精密に扱う

という、きわめて高度な知的作業だった。

ところが、

  • 定義しないこと

  • 決着をつけないこと

  • 曖昧さを保つこと

それ自体が「知的態度」として消費され始めたとき、 ポストモダンは免罪符になった。

  分からないのは、分からせない側が悪い。定義しないのが、深さの証拠だ。

この倒錯が、思想を空洞化させた。

4|「モービィ・ディック」と言われた意味

テキストを弄るのはよいですが、物語を無視しては成り立ちません。そこを勘違いしないでください。それと、人が何かしようとしている腰を折りたくはないですが、キミが今、目の前にしているのは、モービィ・ディックだということに気づいていますか? それを丸腰で捕えようとしていること自体の意味を、考えてみた方がよいと思うのですが。
師匠

師匠が持ち出した「モービィ・ディック」という比喩は、こういう意味だ。

  • 対象が巨大である

  • 単一の概念では捕まえられない

  • 捕まえたと思った瞬間、別の顔を見せる

にもかかわらず、

  欲望とは何か。その本質はこれだ 。

と、一本の定義で押さえ切ろうとする。

無謀だった。

方法が、対象のスケールに合っていないということだ。

5|では、どうすればよかったのか

師匠の言葉を踏まえたとき、取るべき態度は明確だ。

  • 定義を急がない

  • 全体を回収しようとしない

  • 一場面、一挙動、一文に留まる

  • その場で何が起きているかだけを書く

ポストモダンが本来持っていたのは、 捕獲不能なものを、捕獲不能なまま扱う技術だった。

それを忘れ、 「捕まえたように見せる言説」が量産されたとき、 ポストモダンは殺された。

6|最後に――これは過去の話ではない

「ポストモダンを殺した言説」は、過去の遺物ではない。 それはいまも、

  • 文学批評

  • SNSの思想語り

  • 難解さを売りにする文章

の中で、生きている。

だからこそ、師匠は言ったのだ。

それを丸腰で捕えようとしていること自体の意味を、考えてみた方がよい
師匠

それは思考をやめろ、という意味ではない。 思考の装備を選べという忠告だ。

ポストモダンが死んだのではない。 殺した言説の型が、いまも生き残っている。

それに気づいた地点からしか、 本当の思考は始まらない。

牧野楠葉

無料で「最新作のゲラをお届けします」をメールでお届けします。コンテンツを見逃さず、読者限定記事も受け取れます。

すでに登録済みの方は こちら