私の好きな映画たち:”狂気”の物語の系譜
近年の映画を眺めていると、ある共通した変化に気づく。 それは、狂気が「分からないもの」として提示される場面が減り、「説明されるもの」として扱われる場面が増えている、ということだ。
かつて映画における狂気は、観客の理解を拒む存在だった。理由が分からない、背景が語られない、診断も与えられない。ただ、世界と噛み合わないまま存在してしまう人間が、画面の中に置かれていた。
ところが今、狂気はまず理由とともに差し出される。 幼少期のトラウマ、社会的抑圧、制度の不全、差別や貧困。 それらは確かに重要だが、同時に、狂気を「理解可能なもの」「管理可能なもの」に変換する装置としても機能している。
理解できれば、安心できる。 納得できれば、距離が取れる。 説明される狂気は、怖さの代わりに、管理可能性を与える。
この変化は、作り手の倫理が弱くなったからでも、観客が浅くなったからでもない。 むしろ、観客の側が狂気そのものよりも、狂気の「理由」を先に求めるようになったことが大きい。
狂気が理由を持たないまま存在することは、観客にとって負荷が大きすぎる。 何が起きているのか分からないまま見続けること。 共感も、批判も、整理もできない状態に留め置かれること。 それに耐える準備が、私たちの鑑賞態度から失われつつある。
この文脈で、『タクシードライバー』と『ボディビルダー』を比較すると、違いがはっきりする。
トラヴィス・ビックルは、「世界が間違っている」と信じることができた。彼の狂気は、社会への反乱として物語化される余地を持っていた。
一方、『ボディビルダー』のキリアン・マドックスは、世界の正しさを最後まで疑えない。努力、自己管理、成果という物語に、身体ごと同化していく。その結果として壊れていく彼の姿は、反乱ではなく、同化の果ての崩壊だ。
ここに『ジョーカー』を並べると、比較がズレる。 『ジョーカー』は個人が壊れていく物語ではない。社会が用意した「破滅の物語」を、主人公が引き受ける映画だ。狂気は象徴化され、神話化される。その完成度の高さが、観客に安心を与える。
神話化された狂気は、理解のためというより、免責のために機能する。 名前を与え、物語を与え、意味を与えることで、現実の不整合に触れなくて済むようにする。
こうした流れの中で、ヘルツォークの『シュトロイチェク』は異様に見える。 あの映画の狂気は、理由を持たない。背景も、診断も、納得できる説明も用意されていない。あるのは、世界と噛み合わないまま存在してしまう人間の姿だけだ。
『シュトロイチェク』の狂気は、説明不能というより、狂気そのものだ。 だから観客は、理解することも、共感することも、距離を取ることもできない。理由を失ったまま、そこに立ち会わされる。
この「理由の欠如」は、別の方向からも確認できる。 トリアーの『奇跡の海』が描くのは、理由が欠如した狂気ではない。むしろその逆だ。 愛、信仰、献身、自己犠牲。あらゆる「正しい言葉」が、彼女の行為に過剰に貼り付けられていく。
彼女は狂っていくのではない。意味づけられすぎて、逃げ場を失っていく。 『奇跡の海』が恐ろしいのは、行為そのものではなく、行為を覆い尽くす説明の多さだ。これは狂気の映画というより、「意味の暴力」の映画だと言える。
ここで浮かび上がるのが、ジェンダーの問題だ。 男性の狂気は、「理由がない」ことで異物として残されやすい。 女性の狂気は、「理由がありすぎる」ことで物語に回収されやすい。
背景、被害、動機、愛、信仰。 説明が積み重なるほど、行為そのものは選択不能になっていく。 説明は、救いとして機能することもあるが、同時に管理の形にもなる。
では、説明されない女性の狂気は可能なのか。 理論上は可能だろう。だが現実には、すぐに意味が貼り付けられる。説明されないまま存在すること自体が、いちばん許されていない。
理由を与えないというのは、守ることではない。 ただ、回収しないという選択だ。 それは、理解も共感も救済も同時に手放すことを意味する。
今、映画に求められているのは、狂気を説明することかもしれない。 しかし、説明しないという選択肢が完全に失われたとき、映画は何を失うのか。
その問いだけが、まだ処理されないまま残っている。
未説明の狂気はどこに残っているのか。
それはたぶん、語られなかった人物ではなく、語られすぎた物語の裂け目にある。
説明が完成した瞬間、狂気は消える。
消え残ったものだけが、まだ映画の中で不穏に息をしている。
牧野楠葉
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