触れられないものの周囲で、人は生き延びようとする

――象徴・依存・破綻についての覚書
牧野楠葉 2025.12.28
誰でも

人は、欲望をそのまま引き受けることができない。 これは道徳的な話ではないし、意志の強さの問題でもない。むしろ、人が人である以上、ある種の欲望は「直接触れた瞬間に壊れてしまう」性質を持っている、という認識に近い。

触れたい、近づきたい、所有したい。 そう思った瞬間に、同時にそれが「触れてはいけないもの」「触れたら終わるもの」に変わってしまう。この矛盾が生じたとき、人は欲望そのものを放棄するのではなく、欲望の置き場所をずらす。それが、象徴であり、色であり、物語であり、意味であり、場所なのだ。

Ⅰ 欲望は「対象」ではなく「距離」として現れる

多くの物語では、欲望は対象に向かう力として描かれる。しかし、私の小説において欲望は、対象へ向かう運動ではなく、対象から一定の距離を保ち続ける緊張状態として描かれる。

触れたいが、触れられない。 手に入れたいが、手に入れた瞬間に失われると感じている。 だから人物は、決して「奪いに行かない」。

代わりに行われるのは、

  • 見続けること

  • 思い出として保存すること

  • 色やイメージに置き換えること

欲望は行動ではなく、回避として組織される。ここで重要なのは、これが臆病さや未熟さとして描いていない点だ。むしろ、直接触れれば破壊してしまうことを、身体のどこかで知っているがゆえの、極めて現実的な選択として描いている。

Ⅱ 人は「行き先」ではなく「意味の染みた場所」に移動する

小説の主人公が世田谷に行く理由は、合理的ではない。キャリアでも、機会でも、制度でもない。ただ、ある色が重なったという、それだけの理由だ。

この場面で描かれているのは、上京物語ではない。人が人生の決定を、象徴に委ねてしまう瞬間だ。

人は、正しい場所を選ぶことができない。 選べるのは、「すでに意味が付着してしまった場所」だけだ。都市や地名は、現実的な選択肢ではなく、過去の感覚や記憶を保存するための容器として機能する。このとき、人は自分で選んでいるつもりになる。だが実際には、象徴に引き寄せられている。この構造は、恋愛、依存、信仰、暴力のすべてに共通している。

Ⅲ 象徴は現実の代替ではなく、現実回避のための保存装置である

色、空、薬のラベル。これらは美的モチーフではない。共通しているのは、直接触れられない現実を、感覚だけで保存する装置として機能している点だ。象徴は、現実を超えるためにあるのではない。現実に触れずに済ませるためにある。

本物に触れることは怖い。 関係を結ぶことは、壊す可能性を含んでいる。 だから人は、象徴を介して「近くにいる感覚」だけを得る。

ここで重要なのは、象徴そのものが悪ではないことだ。問題は、象徴が現実との唯一の接点になったときに生じる。象徴が強くなりすぎると、現実は粗雑で、危険で、触れる価値のないものに見え始める。

Ⅳ 依存は快楽ではなく、距離を保つための技術である

依存は、しばしば逃避や快楽として語られる。だが、私の小説において依存は、まったく違う機能を持つ。

(薬を)飲まなければ離れてしまう。(薬を)飲めば、まだ近くにいられる気がする。

ここで行われているのは、快楽の追求ではない。距離の管理だ。

近づきすぎない。 だが、完全には失わない。

依存とは、対象との距離を一定に保つための、極めて実務的な技術として描かれている。だから破綻は、依存そのものからではなく、依存が距離を保てなくなった瞬間に起きる。

Ⅴ 破綻は異常の噴出ではなく、意味の過積載によって起きる

暴力は突然起きる。 だが、それは突発的ではない。象徴に意味を載せすぎ、現実との距離を保ち続け、 恐怖を管理し続けた結果、ある一点で、身体が耐えきれなくなる。

私の小説で起きているのは、狂気ではない。意味の過積載による構造的破綻だ。日常はすでに歪んでいる。事件は、その歪みが可視化されただけに過ぎない。

Ⅵ 加害の瞬間、人は自分がどこから来たかを知る

最後に残るのは、母の記憶だ。加害の瞬間に、初めて血縁が理解される。ここで描かれているのは、理解や赦しではない。 連続性の認識だ。

被害者と加害者は断絶されていない。親と子も断絶されていない。人は、自分がどこから来たかを、善行ではなく、破綻の瞬間に知る。

Ⅶ 書いている小説と、この論考が示す牧野の思想

私の小説に通底しているのは、次の人間観だ。

人は、欲望を直接引き受けられない。だから象徴に委ねる。象徴が距離を保っているあいだ、日常は成立する。だが意味を載せすぎた象徴は、やがて現実を圧迫する。破綻は、悪意からではなく、正しく生きようとした結果として起きる。これは救いの否定ではない。ただ、救いが現実を消去してしまう危険を、静かに示している。

…みたいなことを、私の小説の裏思想として稼働力にしている。

賞で受け入れられるかは、わからない。でも、そんなことはどうでもいいのだ(もはや)。

牧野楠葉

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