正しさの顔をした破綻について
これは、いま書いている小説の中で、ずっと考えていることだ。 ただし、何かを主張したいわけでも、正しい答えを出したいわけでもない。 書いているうちに、どうしても何度も立ち現れてしまう、人間の振る舞いについての、ひとつの観察に近い。
人は、自分が「善いこと」をしていると思っているときほど、自分の欲望や加害性を見なくなる。 これは悪意の話ではない。 むしろ逆で、本人の中では一貫して「正しい」「必要な」「仕方のない」行為として選ばれている。
たとえば、耐えること。 誰かの代わりに殴られること。 傷つくことで、相手を守っていると信じること。
それは一見すると、献身や愛のように見える。 けれど後になって振り返ると、それは必ずしも他者のためではなかった、という事実が残る。 「自分が必要な存在である」という感覚を失わないための行為だった、という可能性が浮かび上がる。
自己犠牲は、しばしば愛の形をとる。 しかし同時に、それは自分の存在理由を支えるための、ひとつのプロジェクトにもなりうる。 そこに悪意はない。 あるのは、「そうでなければ自分が空っぽになってしまう」という恐怖だけだ。
この小説では、ある人物が、誰かを「完璧で、傷つきやすく、守られるべき存在」として愛し続ける。 それは深く、切実な愛情だ。 だがその愛は、相手が人間として、地味で、現実的で、他人と生きる幸福を選んだ瞬間に、崩れてしまう。
なぜなら、その幸福は、「守る側」の物語を必要としないからだ。 人形が人間になってしまうとき、神話は終わる。
他人を神格化することは、賞賛であると同時に、現実から切り離す行為でもある。 そこでは、相手の選択や欲望よりも、「こうあってほしい姿」が優先される。 そしてそれは、多くの場合、愛として成立してしまう。
人は、現実に直接触れ続けることができない。 あまりに痛く、あまりに不安定だからだ。 だから意味を呼び出す。 理想や象徴や物語をまとわせる。
それらは一時的に、現実の手触りを和らげてくれる。 けれど意味が強くなりすぎると、現実そのものに触れることが、かえって難しくなる。 本物に触れられないときほど、人は代替物にしがみつく。
この小説の終盤には、清潔で、広く、新しい部屋が出てくる。 理解のある伴侶がいて、穏やかな日常がある。 外から見れば、それは「救い」と呼ばれる状況だ。
それでも、語り手はその優しさを「怖い」と感じる。 なぜなら、その優しさは、過去を無かったことにできてしまうからだ。 傷も、歪みも、失敗も、なかったことにして、生活を成立させる力を持っている。
ここで描きたいのは、救いの否定ではない。 ただ、救いが訪れるとき、人は同時に、何かを見ないで済ませてしまう、という事実だ。
破綻は、事件として突然起きるわけではない。 悪意から始まるわけでもない。 正しい言葉を使い、善意を信じ、愛しているつもりで、静かに進行していく。
だからこそ、それは見えにくい。 そして、多くの場合、止められない。
この小説を書きながら、私は何度も、その「正しい顔」をした瞬間を描こうとしている。 それは誰かを断罪するためではない。 自分自身も、同じ場所に立っていると知っているからだ。
つまり、わたしが夏央莉の代わりに殴られていたゆえに、彼女は長田と出会い、結ばれ、普通の主婦になったのです。なんのために、わたしは耐え続けていたのか。
夏央莉が『有名な女優』になるとか、わたしの愛が彼女に届いて、永遠にわたしのものになるとか……そんな、馬鹿げた、どうしようもなく稚拙な理想が、それでも心の底で本気で願っていたものが、見事に打ち砕かれて、非情な現実が露わになりました。
ともかく、それがわかって、わたしはひどい嵐のような愛憎を抱いた後、しばらく、呆然としてしまいました。あの、ガラスケースの中の煌びやかな人形は、万人に愛される価値があったのに、どこにでもいるような中年の男ひとりのものになってしまったのですから。
だけれども……今思えば、長田という男は、わたしが勝手に想像していたような「どこにでもいる中年」ではなかった。葬式の場で会った彼は、背が高く、やせていて、色白で、どこか影の薄い男だった。でも、その細い指は絵具の染みで汚れていて、話すときには相手の目をきちんと見た。美術教師らしい、物静かで、どこか世間ずれしていない、素朴な感じがした。派手な美しさではないが、確かに「美男」ではあった。ただ、その「良さ」は、わたしや母が求めた「世間が認める華やかさ」とは、まるで種類の違うものでした。
そして今思えば、夏央莉が、一番賢かったのです。夏央莉を愛していたのなら、本当は、心の底から祝福して、喜ばねばならないことだった。だって、なにが、自分にとって一番幸せかということを、わたしたち家族のうちで彼女だけがよくわかっていたのですから。
父の葬式が終わった後、夏央莉はいかにも幸福そうな顔で、わたしにお茶を出した。そして、どこにでも売っているようなピンクのエプロン――しかし、その胸元には、彼がデザインしたという小さな鳥の刺繍が施されているのに気づいた――をなびかせて洗濯物を干している姿を見て、わたしは心底、思った。
ああ、夏央莉も人間だったのだ、と。そんな当たり前のことを。人形であることを押しつけていた異常な家族をきっちり捨てて、自分の力で、地味で、静かで、しかし確かな色に満ちた人生を選んだのだ、と。わたしの愛した、あの「完璧で傷つきやすく、守られるべきだけの存在」としての夏央莉は、もうどこにもいなかった。その大きな瞳だって、昔の、虚ろで死んだようなものではなく、生きる喜びに満ちあふれた、ずっと柔らかいものに変わっていた。
神様みたいに、なんの欠点もない、あの美しい夏央莉は、絵具の染みのついた手と、地味な幸せによって「穢され」、ただの一人の幸せな女になっていたのです。
どんなに殴られてもわたしは、一度だって泣きませんでした。それは、彼女を守らなければ、という絶対的な確固たる思い、そのためならどれだけだって、本当にどれだけだって傷ついたっていい、という自分なりの覚悟。そして、事実、夏央莉は傷ついていないではないか、という確信と誇りがあったからです。
しかし、その、あまりに変わった夏央莉――彼女の幸せが、わたしの傷とは一切関係のない、別の男によってもたらされたものだと理解したとき、わたしは人生で初めて涙を流しました。
わたしは敗北したのです。人生に。自分が、なにもかも初めから間違っていたのだと思った。実際、ああ、やっぱり夏央莉はしっかりと傷ついていて、だからこそ自分に本当の意味での癒しをくれる長田と一緒になって幸せを掴んだのですから。
わたしは結局、自分のことしか考えていなかったのではないか? その証拠に、わたしが流したのは嬉し涙ではなかった。自分が報われなかったという、虚無と嫉妬の涙でした。そんな涙を流してしまったことだって、余計に自己嫌悪に陥る原因になりました。なぜ喜べない? 夏央莉は幸せになったんだから、なったんだから……。
わたしが殴られて耐えていたことなんか、夏央莉にとってはなんの助けにもなっていなかったのではないか? したがって、わたしが身代わりのつもりで負っていた傷に、これっぽちの意味もなかったのではないか? 全ては無駄な傷ではなかったのか? 長田たったひとりいれば、夏央莉の問題は全て解決してしまったのですから。
ひたすらに暴力に耐えていたことが、夏央莉にとってなんの役にもたっていなかったとしたなら、つまり、彼女を守ることができなかったのなら、わたしの存在理由なんて、一切ない。別に、いらなかったんです。圧倒的に無価値なのです。それだけが、わたしの生を動かすただ一つの『プロジェクト』でした。なのに、自分勝手に、夏央莉のことを愛していたつもりになっていただけだというのが……。
ただ、わたしは母親同様、歪んでいただけだったのです。この世で一番憎んでいた母親と、わたしは、夏央莉を「完璧で傷ついた人形」に閉じ込め続けていたという点で、同類だったのです。
自分の指針が、粉々になったのがわかりました。何も、わからなくなりました。
わたしは、夏央莉に今でもまだ、死んだ目をしていてほしかったのでしょうか。そんなエゴの塊でしかないのでしょうか。自分が夏央莉の唯一のガードマンであるというちっぽけな称号、それだけのために?
一番、夏央莉の幸せを願っていたはずなのに……。もうなにもかも。
正月休みになった。だから、少しずつ自分の思想を丁寧に言語化して、書いていこうと思う。少しだけ、応援してくれると、嬉しいです。
牧野楠葉
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