Audibleの『シンセミア(上)』脱落しかけ

『ヒート』はアル・パチーノもデニーロもいい(甲乙つけがたい)
牧野楠葉 2025.12.15
誰でも

今、森達也氏の『A』『A2』にインスパイアされた小説を書いている。

『A』や『A2』は、オウム真理教の信者たちを追ったドキュメンタリーで、私は何をフォーカスしたいかと言うと……。

『A2』の中に、1995年のテロ事件をリアルタイムで知らない青年が、オウムを信仰し、村の人には「出ていけ」と言われるのだけれども、実際は村のおじさんなどと仲が良い様子が描かれている。というところ。

ざっくり言うと、

「抽象としての“オウム”は憎んでいるのに、目の前の“あいつ”には好意を持ってしまった村人たち」

のエゴや、おじさんたちの欲望を書こうとしているのだ。

毎日おじさんたちと世間話をしていたのは、「オウム信者」じゃなくて、

  • 今日もそこにいる若い兄ちゃん

  • 好きなものや、しょーもない近所話をする相手

としての「個人」。

人間って、「抽象」には容赦なく攻撃できるけど、「具体的な顔のある一人」を完全には憎み切れないことが多い。 だから、

  • デモのときは「オウム出ていけ!」と叫ぶ

  • 個人的に話すときには「やめたら戻ってこいよ」と言ってしまう

という矛盾した行動が平然と起きる。

研究レベルでも、オウム/アレフと住民の関係は「激しく対立しているように見えて、現場では和解や共存の萌芽があった」と指摘されていて、日本社会の“モラル・パニック”に対する批判とセットで語られている。それを私は小説にしたいのだ。

ただ、その村には被差別部落などの問題もいれようとして、そうなれば、中上健次あたりの文献もあたらねばならず……。

でも、まあ、以下の問題がある。

「(被差別部落の当事者ではない私が)実体を書くことについて」。

「当事者じゃないから書いちゃいけない」

とは思わない。 でも、

「当事者じゃないからこそ、書き方を間違えると普通よりずっと人を傷つける」

とは思う。

なので、OKかNGかという二択じゃなくて、

  • 何を書こうとしているのか(テーマ)

  • どこまで具体の“部落”を描くのか(レベル)

  • 自分の立ち位置をどう物語のなかに折りたたむか(視点)

この3つを、かなりシビアに整理してから踏み込む必要があると思う。

1.私が「何を書きたいのか」は、部落そのものなのか?

  • 「異端」とラベルを貼られた存在を、共同体がどう排除・利用・同情するか

  • 「村の正義」と「個人の好意/罪悪感」のねじれ

  • 歴史的な暴力が、記憶を持たない世代(青年)にもどう降りかかるか

であって、「被差別部落の実態そのものをリアリズムで描き切ります」という方向ではない。

なので、

  • 実在の地名・史実・運動史をベタにトレースする小説ではなく

  • 「構造としての被差別」を借景にしつつ、 村と教団と青年とおっさんたちの“ねじれた感情”を描く小説

として組むことは十分可能だと思う。

2.どこまで「具体の部落」を描くか問題

いちばん危険なのは、

  • 実在の地名や、連想しやすい固有名を出す

  • 典型的なステレオタイプ(貧困・暴力・教育の欠如……)をそのまま乗せる

  • それを“説明なく”物語の燃料にする

パターン。これは、歴史的に何度もやられてきた差別表象と同じラインに乗るので……。

対策としては、たとえば:

  • 歴史上の「被差別部落」と一対一対応させない 架空の町/地域として描く でも、差別構造(婚姻、仕事、土地、名前の問題など)はきちんと調べた「パターン」を圧縮して使う

  • 架空の町/地域として描く

  • 「ここは被差別部落だ」とラベリングする場面は慎重に扱う 自称ではなく、外部のまなざし/噂/役場の書類など「語られ方」を通して浮かび上がらせる

みたいな、距離の取り方が必要だと思っている。

3.書き手の立場を、物語のどこに置くか

当事者じゃない書き手がいちばんやっちゃいけないのは、

「何もかも分かっているナレーターの顔で、被差別者の心の奥まで勝手に代弁する」

ことだと思う。

避けるやり方としては:

  • 視点人物を「村側」に置く 村の人々の偏見と無知と揺らぎを通して、“見えている範囲だけ”を書く

つまり、

「書かない部分」をきちんと残す 「わからなさ」をわからないまま置いておく

ことが、当事者じゃない書き手にできる最低限の誠実さだと思っている。

感覚論だけじゃなくて、実務としては、

  • 歴史・用語・運動の流れは、ちゃんと一次資料と研究を読む(中上健次周辺の議論とかも含めて)

  • 可能なら、信頼できる第三者(運動と距離のある研究者、感度のある編集者など)に「表象として危ないところ」がないか読んでもらう

この二段階を踏むと、「無自覚にやらかす」リスクはだいぶ減るんじゃないか……?

私個人のスタンスをまとめると、

  • 書くこと自体を止めなくてもいい

  • ただし、「部落を使ってドラマを盛る」のではなく 差別構造と歴史を調べ、自分の立場と視線の貧しさを意識し物語の中で“わからないこと”を安易に埋めない

そのうえで書くなら、むしろ「当事者じゃないのにここまで考えた」という痕跡も、作品の一部になりうると思ってる。

私が今構想している話は、「村が誰か(オウムを信仰している青年)を排除しながら、実は自分たち(村人たちのエゴ)を炙り出していく物語」。

その構造自体が、書き手である私の立場にもそのまま返ってくるはずだから、そこまで含めて作品にしてしまった方が、嘘が少ないんじゃないかと思う。

……とまあ、こんな形で考えている。

こういった「因習村」的な構造は、阿部和重の『シンセミア』を読むといいんじゃないかと思って挑戦しているのだが、Audibleですら挫折しそうになっている(長いけど、今いいところに入り始めた)。面白いんだけどね。

気晴らしに西村賢太の『小銭を数える』(4時間弱)を聴き始める。自分の原稿をやりはじめて、あんまり活字が得意でなくなったので、Audibleには大変感謝している。月のサブスク代が1500円だから、1冊半聴けば十分に元が取れる。

結構、Audible聞き放題にある文学作品はあるし、来年の2月には、なんと村上龍の『イン・ザ・ミソスープ』もくるらしい。楽しみだ。

それではまた、ニュースレターを書くよ。仕事の準備をする。またね。

牧野楠葉

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