Audibleの『シンセミア(上)』脱落しかけ
今、森達也氏の『A』『A2』にインスパイアされた小説を書いている。
『A』や『A2』は、オウム真理教の信者たちを追ったドキュメンタリーで、私は何をフォーカスしたいかと言うと……。
『A2』の中に、1995年のテロ事件をリアルタイムで知らない青年が、オウムを信仰し、村の人には「出ていけ」と言われるのだけれども、実際は村のおじさんなどと仲が良い様子が描かれている。というところ。
ざっくり言うと、
「抽象としての“オウム”は憎んでいるのに、目の前の“あいつ”には好意を持ってしまった村人たち」
のエゴや、おじさんたちの欲望を書こうとしているのだ。
毎日おじさんたちと世間話をしていたのは、「オウム信者」じゃなくて、
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今日もそこにいる若い兄ちゃん
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好きなものや、しょーもない近所話をする相手
としての「個人」。
人間って、「抽象」には容赦なく攻撃できるけど、「具体的な顔のある一人」を完全には憎み切れないことが多い。 だから、
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デモのときは「オウム出ていけ!」と叫ぶ
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個人的に話すときには「やめたら戻ってこいよ」と言ってしまう
という矛盾した行動が平然と起きる。
研究レベルでも、オウム/アレフと住民の関係は「激しく対立しているように見えて、現場では和解や共存の萌芽があった」と指摘されていて、日本社会の“モラル・パニック”に対する批判とセットで語られている。それを私は小説にしたいのだ。
ただ、その村には被差別部落などの問題もいれようとして、そうなれば、中上健次あたりの文献もあたらねばならず……。
でも、まあ、以下の問題がある。
「(被差別部落の当事者ではない私が)実体を書くことについて」。
「当事者じゃないから書いちゃいけない」
とは思わない。 でも、
「当事者じゃないからこそ、書き方を間違えると普通よりずっと人を傷つける」
とは思う。
なので、OKかNGかという二択じゃなくて、
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何を書こうとしているのか(テーマ)
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どこまで具体の“部落”を描くのか(レベル)
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自分の立ち位置をどう物語のなかに折りたたむか(視点)
この3つを、かなりシビアに整理してから踏み込む必要があると思う。
1.私が「何を書きたいのか」は、部落そのものなのか?
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「異端」とラベルを貼られた存在を、共同体がどう排除・利用・同情するか
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「村の正義」と「個人の好意/罪悪感」のねじれ
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歴史的な暴力が、記憶を持たない世代(青年)にもどう降りかかるか
であって、「被差別部落の実態そのものをリアリズムで描き切ります」という方向ではない。
なので、
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実在の地名・史実・運動史をベタにトレースする小説ではなく
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「構造としての被差別」を借景にしつつ、 村と教団と青年とおっさんたちの“ねじれた感情”を描く小説
として組むことは十分可能だと思う。
2.どこまで「具体の部落」を描くか問題
いちばん危険なのは、
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実在の地名や、連想しやすい固有名を出す
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典型的なステレオタイプ(貧困・暴力・教育の欠如……)をそのまま乗せる
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それを“説明なく”物語の燃料にする
パターン。これは、歴史的に何度もやられてきた差別表象と同じラインに乗るので……。
対策としては、たとえば:
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歴史上の「被差別部落」と一対一対応させない 架空の町/地域として描く でも、差別構造(婚姻、仕事、土地、名前の問題など)はきちんと調べた「パターン」を圧縮して使う
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架空の町/地域として描く
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「ここは被差別部落だ」とラベリングする場面は慎重に扱う 自称ではなく、外部のまなざし/噂/役場の書類など「語られ方」を通して浮かび上がらせる
みたいな、距離の取り方が必要だと思っている。
3.書き手の立場を、物語のどこに置くか
当事者じゃない書き手がいちばんやっちゃいけないのは、
「何もかも分かっているナレーターの顔で、被差別者の心の奥まで勝手に代弁する」
ことだと思う。
避けるやり方としては:
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視点人物を「村側」に置く 村の人々の偏見と無知と揺らぎを通して、“見えている範囲だけ”を書く
つまり、
「書かない部分」をきちんと残す 「わからなさ」をわからないまま置いておく
ことが、当事者じゃない書き手にできる最低限の誠実さだと思っている。
感覚論だけじゃなくて、実務としては、
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歴史・用語・運動の流れは、ちゃんと一次資料と研究を読む(中上健次周辺の議論とかも含めて)
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可能なら、信頼できる第三者(運動と距離のある研究者、感度のある編集者など)に「表象として危ないところ」がないか読んでもらう
この二段階を踏むと、「無自覚にやらかす」リスクはだいぶ減るんじゃないか……?
私個人のスタンスをまとめると、
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書くこと自体を止めなくてもいい
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ただし、「部落を使ってドラマを盛る」のではなく 差別構造と歴史を調べ、自分の立場と視線の貧しさを意識し物語の中で“わからないこと”を安易に埋めない
そのうえで書くなら、むしろ「当事者じゃないのにここまで考えた」という痕跡も、作品の一部になりうると思ってる。
私が今構想している話は、「村が誰か(オウムを信仰している青年)を排除しながら、実は自分たち(村人たちのエゴ)を炙り出していく物語」。
その構造自体が、書き手である私の立場にもそのまま返ってくるはずだから、そこまで含めて作品にしてしまった方が、嘘が少ないんじゃないかと思う。
……とまあ、こんな形で考えている。
こういった「因習村」的な構造は、阿部和重の『シンセミア』を読むといいんじゃないかと思って挑戦しているのだが、Audibleですら挫折しそうになっている(長いけど、今いいところに入り始めた)。面白いんだけどね。
気晴らしに西村賢太の『小銭を数える』(4時間弱)を聴き始める。自分の原稿をやりはじめて、あんまり活字が得意でなくなったので、Audibleには大変感謝している。月のサブスク代が1500円だから、1冊半聴けば十分に元が取れる。
結構、Audible聞き放題にある文学作品はあるし、来年の2月には、なんと村上龍の『イン・ザ・ミソスープ』もくるらしい。楽しみだ。
それではまた、ニュースレターを書くよ。仕事の準備をする。またね。
牧野楠葉
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